「ナンバーワンではなく、オンリーワン」といった腐りきった言葉を平気で使い頑なに信じている人にとっては、
あきらめる、という言葉、あるいはそういったニュアンスを伴う語彙は、負の感情しか与えることのできないものとして認識されていると思う。
仮に、何かを
あきらめる、といったことをそういった人たちに伝えてみると「努力が足りない」「忍耐力がない」などといった、自分の口から出てきた言葉を信じて疑わない、自分は正しいことを言っていて何も間違っていない、といったある種傲慢な気持ちが見え隠れする態度をとられる。
一種の思考停止。
何が彼らをそんなに盲目的にさせてしまったのだろう?
情報が、大量に溢れている。
一人一人がじっくりと考える時間がなくなってきた気がする。
人々の息を詰まらせ、苦しくさせる機会が増えてきたような気がする。
いるもの。いらないもの。
明確な差はあるのか?
自分は何を望んでいるのだろう?
自分は何を欲しているのだろう?
Quick Japan (
クイックジャパン)という雑誌がある。
主な記事としてサブカルチャー関連のもの(最近は変わってきているような気がするが)が掲載されているサブカル本だ。
そのvol.31(2000年6月発行)において、今でも心に残る記事、エッセイがあった。
この文には、
あきらめること、について書いてあった。
これを書いたのは、素晴らしいトランペットの音色を聴かせてくれる、
こだま和文という人である。
初めて聴いた彼の演奏。
そのときは適度に心地よいノイズをバックに、「星に願いを」をトランペットでゆっくりと、メロディを奏でていた。
そして、ここに示した一つの方向性は、彼のトランペットの調べと同じ色、同じにおいを描いていた。
……まあノスタルジーなどという話は、この過酷な現代においては何の意味もないから、つっこんで書くことはしないが、思うところ僕は、いくつかのことをあきらめたのである。
今あきらめるという言葉が気に入ってる。世間というものは、あきらめるという言葉を、がまん、に置き換えて、ネガティブな言葉を、嘘のポジティブさに変えてきたのではないかと思うのだ。あきらめが肝心という肯定的な使われかたをする場合もあるにはあるが、それはそれでよい。
とにかく、ひとつひとつあきらめることだ。
もっと有名になりたい、もっといい生活がしたい、もっと美人になりたい、もっと人に好かれたい、もっと、もっと……。
あるいは、あいつをなぐりたい、人を殺したい、リベンジしたい etc 、ひとつずつあきらめよう。
冷たい親や人間は、がまんや忍耐力が欠けていると言って子供を教育しようとしているが、今の日本の子供あるいは少年少女に欠けているのは、自由、というものだ。
とことん自由になるためにはもっとあきらめるのだ。
目の前にちらつく手が届きそうもない欲求、金銭欲、それらをひとつひとつあきらめること。
がまんするのではなく、あきらめるのだ。
ただし自分や他人を傷つけることなく、息苦しくなる原因をひとつずつあきらめて、自由を獲得したいものだ。
自由を得るため不必要ながまんをせずに、持てあます情報を見極めて、あきらめる。
あきらめても、あきらめても、あきらめきれない強いものが見えてくるはずだ。
この一文によって、文章は終わる。
そう、この文章は、破滅や怠惰を意識したものではない。
とても力強い、希望の文章だ。
- 2006/10/21(土) 20:55:06|
- 想
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