DJ KRUSH(クラッシュ)が奏でる音は、
手塚治虫の漫画「火の鳥・鳳凰編」の登場人物である我王に見えるときがある。
全部が全部、そう聴こえるわけではない。
ただ、そんな風に思える瞬間が確かにある。
彼が鳴らす音から、我王が浮かび上がる瞬間が。
…時には、山道を歩く姿を。
…時には、心静かに鳥獣たちと戯れる姿を。
…時には、言いようのない怒りにより仏像をつくる苦悶の姿を。
もちろん、KRUSHの過去がどうだった、とかそんな無粋なことは考えないし、思い浮かばなかった。
直感的に、KRUSHの音楽は我王のテーマになり、我王がKRUSHになった、と思っただけだ。
涅槃の音にもっとも近いもの。
耐え切れない大きな絶望を背負いながらも、ただ歩むその様。
特に「Strictly Turntablized」のアルバムを知人の家で聴いていた時の音に強い衝撃を受けた。
薄暗かった部屋に独りの人間の姿が見えた気がした。
「火の鳥・鳳凰編」には、夜の描写があまりなかったような覚えがある。
あのような、本気でもののけ、妖怪の存在が信じられていた時代。
伸ばした手すらも包み込むであろう夜の帳の中、聴こえてくる音楽はこのKRUSHの音ではなかろうか。
そんな闇に旅路を急ぐ姿は、KRUSH本人ではなかろうか。
考えれば考えるほど、二人が奇妙に絡み合ってくる。
これは果たして単なる偶然と割り切っていいのだろうか?
そんな幻想を抱きながら、今日も彼の音に耳を傾ける。
彼は今、何を求めているのか。
彼が鳴らす音には、どんな思いがこめられているのか。
そして。
我王は最後にどんな光が見えて何を想ったか…
- 2006/12/16(土) 04:03:49|
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「ナンバーワンではなく、オンリーワン」といった腐りきった言葉を平気で使い頑なに信じている人にとっては、
あきらめる、という言葉、あるいはそういったニュアンスを伴う語彙は、負の感情しか与えることのできないものとして認識されていると思う。
仮に、何かを
あきらめる、といったことをそういった人たちに伝えてみると「努力が足りない」「忍耐力がない」などといった、自分の口から出てきた言葉を信じて疑わない、自分は正しいことを言っていて何も間違っていない、といったある種傲慢な気持ちが見え隠れする態度をとられる。
一種の思考停止。
何が彼らをそんなに盲目的にさせてしまったのだろう?
情報が、大量に溢れている。
一人一人がじっくりと考える時間がなくなってきた気がする。
人々の息を詰まらせ、苦しくさせる機会が増えてきたような気がする。
いるもの。いらないもの。
明確な差はあるのか?
自分は何を望んでいるのだろう?
自分は何を欲しているのだろう?
Quick Japan (
クイックジャパン)という雑誌がある。
主な記事としてサブカルチャー関連のもの(最近は変わってきているような気がするが)が掲載されているサブカル本だ。
そのvol.31(2000年6月発行)において、今でも心に残る記事、エッセイがあった。
この文には、
あきらめること、について書いてあった。
これを書いたのは、素晴らしいトランペットの音色を聴かせてくれる、
こだま和文という人である。
初めて聴いた彼の演奏。
そのときは適度に心地よいノイズをバックに、「星に願いを」をトランペットでゆっくりと、メロディを奏でていた。
そして、ここに示した一つの方向性は、彼のトランペットの調べと同じ色、同じにおいを描いていた。
……まあノスタルジーなどという話は、この過酷な現代においては何の意味もないから、つっこんで書くことはしないが、思うところ僕は、いくつかのことをあきらめたのである。
今あきらめるという言葉が気に入ってる。世間というものは、あきらめるという言葉を、がまん、に置き換えて、ネガティブな言葉を、嘘のポジティブさに変えてきたのではないかと思うのだ。あきらめが肝心という肯定的な使われかたをする場合もあるにはあるが、それはそれでよい。
とにかく、ひとつひとつあきらめることだ。
もっと有名になりたい、もっといい生活がしたい、もっと美人になりたい、もっと人に好かれたい、もっと、もっと……。
あるいは、あいつをなぐりたい、人を殺したい、リベンジしたい etc 、ひとつずつあきらめよう。
冷たい親や人間は、がまんや忍耐力が欠けていると言って子供を教育しようとしているが、今の日本の子供あるいは少年少女に欠けているのは、自由、というものだ。
とことん自由になるためにはもっとあきらめるのだ。
目の前にちらつく手が届きそうもない欲求、金銭欲、それらをひとつひとつあきらめること。
がまんするのではなく、あきらめるのだ。
ただし自分や他人を傷つけることなく、息苦しくなる原因をひとつずつあきらめて、自由を獲得したいものだ。
自由を得るため不必要ながまんをせずに、持てあます情報を見極めて、あきらめる。
あきらめても、あきらめても、あきらめきれない強いものが見えてくるはずだ。
この一文によって、文章は終わる。
そう、この文章は、破滅や怠惰を意識したものではない。
とても力強い、希望の文章だ。
- 2006/10/21(土) 20:55:06|
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…漆黒の幕の向こう、遥かから微かな甘い香りが漂った
天から注ぐ淡い輝きに誘われて、ふと、空を仰いだ
満ちた月が纏う衣から、便りが届いた
”あれからお変わりありませんか…”
ゆっくりと侵食していく雲、儚げに姿を現しては消え、
辺りが再び闇に閉ざされる
どこからともなく尺八の音が聴こえた
まるで虫の羽音、のような、弱く、鮮明な旋律
幽玄な響きが夢幻に踊った
刹那、その柔らな音は、雲を裂き、再び天空に新円を描いた
忘れていた
こんなにも明るい夜があることを
こんなにも静かな時があることを
…静寂が耳を劈く
消えた音に、立ち上る香り
届けた風が、揺らぎ揺らめく蝋燭の灯を消した
泡沫の炎に映った己が闇に溶けた
視覚を再び優しく奪われ、息を、軽く吐いた
そして、
口ずさむ。この純愛の詩を祈りに代えて。
口ずさんでいた。あの人への遠い想いを。
そう、いつも口唇には詩をたずさえて。
もう叶わない、邂逅を、夢見つつ…
目を閉じ、聴き入っていた。
こんな心象風景、日本の「美」が、心に浮かび上った。
そこには、月があった。
そこには、確かな想いがあった。
shing02の曲「歪曲 新米 言」である。
狂おしいほどに直接的な愛の言葉が、とても綺麗だ。
日本語の美しさが心に染み入る。
日本人の情緒が美しく感じられる。
日本人でよかったと、心から思った。
shing02は、この唄を、誰に届けたのだろうか…
- 2006/06/18(日) 01:04:31|
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他人を、特に面識のない人などに向けての批判は簡単で、しかも心地よい。それがその人の失敗や過ちだとしたら、なおさらだ。
相手がいないところで、相手は全く知らない状態で文句、批判を言う。
自分は絶対に安全な場所にいる。
自分の発言をきっかけに議論が始まるわけでもなく、ただ言いたい放題言って、それで終わり。
自分の気持ちが荒れてる時や、逆に調子にのりすぎてるときなんかはこういう安易なことをやりがちである。後から振り返って自己嫌悪に陥ることが多い。
そんな時、時々であるが、次のような言葉を思い出すことがある。
ぼくがまだ年若く、いまよりもっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告を与えてくれたけれど、爾来ぼくは、その忠告を、心の中でくりかえし反芻してきた。
「ひとを批判したいような気持ちが起きた場合にはだな」 と父は言うのである 「この世の中の人がみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思いだしてみるのだ」フィッツジェラルドの小説「グレート・ギャッツビー」(新潮文庫、野崎孝=訳)の冒頭のシーンからの引用。
小説始まってすぐ、この言葉。素敵だ。
もちろん、この言葉が全ての場合に当てはまるというわけでないだろう。
しかし、この考え方、精神はすごい。是非見習いたい、と常々思う。
続いて、批判・批評ということに関して、shing02は次のようなことを言っていた。
僕には今でも勉強しなくちゃいけないことが沢山あるし、目指していることが全然できていない。でもそんななかでも作品を出していると何かを感じてくれる人がいる。批評とかありますけど、大事なことは、文句を言う人は悪いところをみている、褒める人はいいところをみている。それに尽きます。そのなかで僕はここが気に入った、というツボを見つけることとかによって価値観が作られていく。
文句のあら探し、揚げ足が多いけど、僕はやっぱり完成度はプレゼンでしかないから、心とか魂が大事だと思う。他人に評価されることを恐れてはいけない。そして、その評価に一喜一憂することなく、自分をしっかりと見つめるだけの力を身につけなくてはいけないな、と最近よく思うようになった。
- 2005/10/09(日) 00:26:23|
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